昭和四十八年七月十五日 朝の御理解
 x 御理解第二節 
 「先の世まで持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない」
 

 神信心しておかげを受けるというのは、神徳を受けるということであり、又は神様が人間氏子に願っておられる、求めておられるのも、人間氏子の信心して神徳を受けてくれるということが願いなのです。ここんところをひとつ、よく…。
 だから大変なことなのです。先の世までも持って行かれ、子孫までも残しておこうという程しのものを頂くための信心なのです、金光様の御信心は。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。信心しておるというても、只お参りをしております。拝んでおりますということだけではない。
 信心とは、何事も真心になれとおっしゃる。そういう信心なのです。信心…只、拝みよります。お参りしよりますというのではありません。誰でも御神徳が受けられる、誰でもが真心にならせて貰うと、何事にも真心にならせて貰うという信心をさして貰えば、誰でも…、それはそうでしょう。あの世にも持って行かれ、この世にも残しておけるという程しのものですから。
 それは、誰でも信心のはじめの頃は、只御利益、目先目先のおかげのことだけで信心をはじめるという人がほとんどです。病気をしたとか、もう人間の智恵、力ではどうにも出来ないとか、そういう難儀を難儀と感ずる時代には、難儀の中からおかげを頂きたいとい言うて信心をはじめる。それはおかげを受ける。だからおかげを受けるということは、成程神様の働きをわからせてもらう、認めさせてもらう。そこから、その神様の心がわからせて貰うて、神様の先日から頂く。神様の心を心として頂く信心が大きな信心だと。これは大きな信心でなければお徳は受けられません。神様の心を心としてゆく信心です。それが何事にも真心になれよと言う、真心にならなければならん。
 そこで、神様のことを私どもが、わからして頂かにゃならんのは、それは親が子を育てる。それには、只甘い顔ばっかりはしておられない。言うことを聞かなかったり、又本気で親が少し鍛えようとする時には、厳しく躾を致します。かと言うて、いつも厳しいかということではない。それこそ撫でさすりされるように可愛がられることもある。だから、どっちも実を言うたら、可愛がられるのである。
 私は「信心すれば、誰でもお徳が受けられる」と言うのはね、そこんところを分かって、そういう親心がわかって、親心に対して感謝の心を持って、受けぬいて行くという。そういう信心をすれば、お徳を誰でも受けられるというのであると思う。神様がこうゆう問題を通して、信心を鍛えて下さる、信心の躾をして下さると、それを有難く受けて行く。だから、撫でさすりされても増長せずに、勿体ないことである。信心も出来ないのに「勿体ない、勿体ない」と言う信心。
 ならば、「よし、叩かれても躾けられても、厳しく躾けられても、それこそ親なればこそと言う気持ちで、信心を進めて行く。そういう信心から、お徳が頂けるのです。先の世まで持って行かれ、子孫までも残ると言うのですから、そうゆうお徳を頂くということがお道の信心の眼目です。
 先日、そこの合楽食堂の中村さんが、お届けされますのに「体がきつうして、きつうして、ちょっと横にならにゃおられんように体がきつい。そしてしばらく御無礼さしてもらおうと言うて寝まれたら、お夢の中に、合楽食堂の前にね、もうこれ以上痩せられまいと言った牛が、二、三頭いるところをお夢を頂いて、ハッと思うて目が覚めた」と言うておられます。
 牛と言えば家のめぐり、例えば、牛なら牛がもうこれ以上痩せられまいと思うように痩せとる。まあこれは先祖代々ということでしょう、三匹じゃったら、もう、先祖代々から、言うならばめぐりをつくって来ておる。難儀の元をつくって来ておる。人間が本当の幸せになれない元をつくって来ておる。おかげを頂いて、信心が段々わからせてもろうて、信心の何たるかも段々分かって来た。日々おかげを受けて行くけれども、「やれ痛や、今みかげを」と言うような信心も段々分かって来た。
 だから先に申しましたけれどもね、まあ、きつうてこたえん、しるしゅうてこたえん、と例えば言う時にはね、そのめぐりもへとへとの時なんだということ。私どもが様々な難儀な問題を、もうこれ以上、もう辛抱が出来んと言ったような時にはね、めぐりの方も、もう辛抱が出来んと痩細っておる時です。だからもう、おかげが実を言うたら間近と言う時だから、そういう時こそ、元気な心で生き生きと、神様がこのようにして鍛えて下さる。このようにしてめぐりのお取り払いをして下さるんだと、御礼を申し上げて進んで行かねばなりません、と言うてお話をしたことでした。
 ですからもう、めぐりの力が五十、信心の力が五十、これならば正和と申しますように、正、正しいものが絶対勝つことになっとるんですから、これがもう、宇宙の法則というか、原則です。同じ五十と五十の力を持っておるものが、なら、ここに悪人と善人とおるならば、善人が絶対勝たなければならないことになっているです。
正しい者が勝つ。
 けれども、正しいものの力が弱かったら、今度は、悪の方が勝つことになる。こちら、いくら善であってもです、それが五十。ところが、悪の方が六十の力を持っとるなら、やはりその悪に負けなければならない。いわゆる、悪栄えると言うのは、そういう時でしょうね。悪の方が力が凄い、だから、お互い信心の力を頂いて。例えば難儀を感ずる時には、いよいよ神様の御期待を頂いておる。神様がこのようにして鍛えて下さる、力をつけて下さるという頂き方をさせて貰う。
 そういう信心からです、「先の世までも持って行かれ、この世にも残る」という程しのお徳を頂くことが出来る。お徳というものが、そんなにてんばらやすう頂けるとは思われません。もうこの世だけのことではない。あの世の先の先まで持って行かれるのですから、そういうものを、実は頂くことのために、この世に私どもは人間として生を享けておるということが本当なんです。
 ですから、そういうこともとうとう気付かんなりに一生終わって行く人は、いよいよ気の毒なことです。それを幸、縁を頂いて、信心のおかげを頂くようになったのですから、その信心のおかげというのも、目先目先だけのおかげでなくて、あの世にも持って行かれ、子孫にも残ることのために、信心はさせて頂くのだと分かった時に、今、天地の開ける音を聞いて目を覚ました時だと思うですね。信心のまなこが開けてくる。そこからが信心です。
 そういう信心をさせて頂く者の上に、誰でもが受けられるのが神徳だということ。中にはね、例えば、親と子の問題に致しましょう。
例えば、子供がよう勉強をする。学校から帰って来るとお手伝いもする。親の言うこともよく聞く、こういう生き方で行けば、もうめぐりの出ようがないですね。難儀を受け…これはまた特別です。
 ところが、これは信心の根本のところが分からねばです、どういうことをすることが親が喜ぶか、神様が喜んで下さるか、ことすらが分からんのです。信心を本当に頂かなければ、どういうことが神様の御気感に適わぬのかすらが分からんのです。
 そういう人が、信心のない人達が、「私だん別に悪いことはせんから、そげん神さんに参らんでん」と言う人がおるのはそれです。
神様の目から御覧になれば、悪いことであっても善いことと思いこんどる。
 また中には、それは善いことであっても、自分でそれを悪いことと思うて、自分で自分の身を苦しめておる人もある。だから真の信心をわからなければ、真の教えを頂かなければ、その辺がわからん。
 例えば、神様が厳しゅう躾けよう、もう言うこと聞かんなら叩こうと思いなさる。神様が、そういう思いでなくて、本当に家の子供はよう出来とる、もうほんに出来過ぎとる。何かやらなきゃ、褒美でもやらなきゃおれんような、生き方もあるです、信心に。これはもうめぐりが出ようがないというか、めぐりがあっても、なら、めぐりというのを一つの借金とするなら、もう催促を受ける前に、どんどん、どんどん、払い込んで行くようなもんです。
 だから、本当言うたら、そういう理想的な信心を目指さなければなりませんけれども、それには信心が言うならば、充分分からなければいけない。そして、分かったことを、本気で行じなければいけない。しかもこれは、一家勢を揃えておかげを頂かねば出来ない。
もうこれなら、絶対です。そういう生き方で、お徳を受けて行くというのが、一番素晴らしい生き方ですけれども。
 昨夜、末永先生が御祈念の当番でした。そして、「折角一生懸命信心して、まあ言うなら、少しは有難いものを頂いたなと思うておると、信心の油断をちょっとすると、もう有難いものが欠けてしまう。信心に油断は禁物だと。又言うたら、こうゆうことは信心じゃないとわかった以上、もうそれを犯すようなことがあってはね、折角の貯め上げたものが、又水の泡になってしまう」と言うような話しをしておりましたが。
 私はここから聞かせて頂きよりましたら、小さなハサミをどんどんこうやって飲みよるところを頂いた。まあハサミと言うことは、あれはチョキン、チョキンと言うからね、言うなら、信心の貯金が折角出来る、信心して。その貯金を、もう言うなら、悪いことをすると言うか、神様のお心に適わんようなことを、言うなり、するなりして、又ガバッと貯金したのを下ろしておるようなものだ。勿体ない話だ。いわゆる、末永先生が昨日、言うておるように、又水の泡になるのです、それでは馬鹿らしいです。
 そしてならば、信心になるということはね、実を言うたらね、嬉しゅうして、楽しゅうしてということなんですよ。本当の信心を身につけるということは、決して苦しいことでもなければ、はあ信心しよるけん、こげん苦労せんならんということは絶対ないです、本当の信心を言うたら。それが分かってきたら、もう楽しゅうして、楽しゅうしてということになって来るです。有難うして、有難うしてということになって来るです。そういう信心をお互い身につけたいと思うです。
 油断のしようがない、すきをつくることがない程しの、言うなら信心ですね。それはまあ、人間完璧ということは出来ませんけれども、そういう信心の姿勢をつくらせて頂きますとです、神様はそこんところを、小さいお気付なら、お気付をもってお繰合わせを(頂き)下さり、又はそういう難儀なことにならんですむようなお繰合わせを下さるです。
 先の世まで持って行かれ、子孫にも残るという程しのものを頂くことのための信心、それを御神徳と言う。その御神徳を頂くことのために、私どもは人間この世に生を享けているんだと。これをひとつ、これは信心の眼目ですから、そこをひとつ本気で分からせて頂いて、右と願えば左となり、左と願えば右となる程しにです、言うなら、信心の力を頂いておる時だと、分からしてもろうて、いわゆる、一切を神様の御都合として頂いて、一切を神様の御都合としてそれを頂いて行くところに、神様の働きを働きたらしめると言うておられますように、神様の働きを働きたらしめるということはです、神様が下さりとうてたまらぬおかげ、受けて欲しいと願っておられるおかげ、それを御神徳と言う。
 それは一切が神様の御都合として、痛いことでも、痒いことでも、それは撫でさすりされるように甘美なことであっても、甘いことであっても、一切がおかげですから、その甘美なおかげに酔うことなく、油断することなく、叩かれたからというて、そこから却ってシャンとした信心させて頂くという、そういう信心をすれば、誰でも受けられるのが御神徳である。
 しかも、その御神徳というのは、みてるということがない、もうこれだけということがない。もう限りがないもの。だから、信心はもう、楽しゅうして楽しゅうして、有難うして有難うしてならんということになるのですね。
どうぞ。